自由民権運動の壮士たち・第1回 深澤権八・千葉卓三郎・利光鶴松(東京都)



千葉卓三郎

2013年の誕生日に際しての記者会見において皇后陛下は、自由民権運動の中で作られた民間の憲法草案の一つである「五日市(いつかいち)憲法草案」について、次のように語られました。

かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

五日市憲法草案と3人の壮士

皇后陛下によって「世界でも珍しい文化遺産」として称えられた「五日市憲法草案」を作ったのは、山深い五日市の地で自由民権運動に参加していた若者たちでした。その中心にいたのが、山林地主として栄えていた深澤家の、当時19才の若き当主であった深澤権八(ふかざわ ごんぱち)。深澤家は、周辺の山で切り出した木材を、秋川から多摩川へとイカダにして流し、東京の木場などに出荷して財産を築いていました。深澤はこうした財産を使って、東京で政治、経済、法律、哲学などに関する欧米の新しい本を続々と買い求め、自由民権運動の仲間たちと読み、語り合う事を通して、共に自由民権運動を担っていったのでした。

そうした運動の拠点の一つとなっていたのが、地元の公立の小学校である勧能学校(かんのうがっこう)で、深澤のような地元の有力者の支えの下に、自由民権運動の壮士たちが各地から集まって教員などを務めていました。仙台藩士として戊辰戦争に参加して敗れた後、上京して様々な学問や宗教を探求しつつ遍歴を重ねていた千葉卓三郎(ちば たくさぶろう)も、そうした一人として勧能学校の教員、校長となって、深澤たちと共に自由民権運動に加わります。そして、彼が学んできた様々な学問や宗教の蓄積と、深澤の蔵書から得た幅広い知識と、深澤を始めとした仲間たちとの熱い議論を通して形成された思想に基づいて、千葉卓三郎が1881年に起草したのが「五日市憲法草案」だったのでした。

この「五日市憲法草案」は、皇后陛下のお言葉にあるように、国民主権の立場に立ち、平等権や教育権といった国民の基本的権利の尊重、更には地方自治の確立や司法権の独立をもうたっているといった点から、現在の日本国憲法につながっているとも言える先進性持った憲法草案として、高く評価されています。そうした憲法草案を、山深い地に住む若者たちが、自由民権運動という国民的一大運動の流れの中で、共に勉強し、議論し合う中から作っていったという歴史の上に、現在の私たちは存在している訳です。

そして、そうした若者たちの一人に、大分から上京して深澤家に世話になっていた利光鶴松(としみつ つるまつ)がいました。千葉が、「五日市憲法草案」を起草した2年後に若くして亡くなってしまった後の勧能学校で教師となった利光は、深澤の蔵書の中から主に法律書を読み漁り、やがて代言人(現在の弁護士)を目指すようになり、五日市を離れて明治法律学校(現在の明治大学)に入学。深澤の蔵書を写し取った書を元に勉強を続け、一年で代言人の試験にトップ合格します。

その後五日市に戻って、深澤に合格とお礼を伝えた利光は、深澤からお金を借りて、東京の木場に代言人の事務所を開設。深澤の父が、木場の材木問屋などの取引先を利光に紹介してくれたこともあって、代言人事務所の経営は成功します。こうして木場や深川に自らの地盤を築いていった利光は、東京市会、衆議院に進出。その当時の自由党のリーダーだった星亨(ほしとおる)の右腕として活躍します。星亨が暗殺された後は政界を引退して起業家に。鉄道や電力事業などに力を注いで、小田急電鉄などの創業者となっていったのでした。

一方、「五日市憲法草案」が起草された9年後に、深澤も千葉卓三郎と同じく若くして亡くなってしまいました。その2年後に深澤の父も世を去り、「五日市憲法草案」は深澤家の土蔵の中に置かれたまま、その存在を忘れ去られてしまったのでした。そしてそれから約70年経って、利光の13回忌と小田急電鉄開業30周年の記念事業として、利光の自伝が小田急電鉄によって出版されます。その中では深澤と利光との交流なども明らかにされていて、そこに注目した研究者グループによって、1968年に深澤家の土蔵の調査が行なわれ、その結果「五日市憲法草案」が発見されたのです。日本の未来を夢見る若者たちによって作られた「五日市憲法草案」は、約90年後の日本国憲法下の時代になって、初めて日の目を浴びる事となったのでした。

自由な社会を求めて

皇后陛下のお言葉にあったように、『政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願い』を持った自由民権運動の壮士たちは、幕末の開国以来のグローバル化による急激な社会の変化の中で、自由な社会を求めて懸命に行動しました。再びグローバル化が進み社会が急速に変化していっている現在の日本。私たちは、こうした近代日本人の歴史と伝統を踏まえた上で、かつての自由民権運動の壮士たちのように強い意欲と熱い願いを持って、これからの未来を切り拓いていくべきなのだと感じさせられた次第です。


中村英一
中村英一


自由な社会を目指して、現代日本での自由民権運動を志す自由民権現代研究会 事務局長。2012年に静岡県で行われた「浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票の実施を求める直接請求活動」という、県民の政治への直接参加を求めた県民大衆運動の事務局次長として、17万余の静岡県民の署名を集めることに貢献。民主主義の進化を求めて、浜岡原発の再稼働の是非を問う県民投票の実現を目指す、原発県民投票静岡2020代表。より良い国民投票の実現を目指す、国民投票静岡代表を務める。中央大学法学部卒業。

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