自由民権運動の壮士たち・第2回 飯村丈三郎(茨城県)



(飯村丈三郎の銅像)

茨城県の地元紙、茨城新聞社の基礎を築いた男

茨城県には『茨城新聞』という地方新聞があります。発行部数約12万部。茨城県内の約11%の世帯で購読されていて、読売・朝日・毎日という三大新聞に続く存在となっています。この『茨城新聞』の前身の新聞である『いはらき』の経営を引き継ぎ、経営危機にひんしていた社を再建。以後、明治24(1891)年から昭和2(1927)年までの37年間にも渡って第2代社長を務め、今日の『茨城新聞』の基礎を創り上げたのが、飯村丈三郎(いいむら じょうざぶろう)という人でした。
飯村は、ペリーが黒船に乗って来航する10日ほど前の嘉永6(1853)年5月に、現在の茨城県下妻市黒駒の代々名主を務める旧家に生まれました。16才になった時に飯村は、第14代将軍徳川家茂に教えた経歴を持つ、漢学者の菊池三渓(きくち さんけい)の塾に入ります。菊池は、家茂の死後は下妻に移住して学問を教えていたという、全国的にも一級の知識人でありました。ここで学問に励んでいる間に飯村は、森隆介(もりたかすけ:その後、慶應義塾で学び自由民権運動に参加、衆議院議員となる)と知り合います。

民権結社「同舟社」を結成 筑波山で国会開設を求める集会を開催

そして、国会開設を求める自由民権運動が全国各地で始まると、飯村は森と共に下妻の地で同舟社(どうしゅうしゃ)という民権結社を結成して運動に参加します。この同舟社は、茨城県内では最も勢いのある民権結社となり、板垣退助(いたがきたいすけ)が呼びかけた自由党の活動にも先頭を切って参加していくこととなります。
そうした運動を続ける中から飯村たちは、国会開設を請願する集会を県内の民権運動家たちに呼びかけて、筑波山にある筑波神社の社務所で開催します。県内各地から100名を超える民権家が集まったこの集会を成功させた事によって、飯村たちは世にその存在を知らしめました。その後、茨城県議会が開設されると、飯村も森も出馬して当選。飯村は以後衆議院議員になるまで約10年間県会議員を続け、議長も2度務める事となりました。

地元銀行の経営を再建し、地元への鉄道敷設に尽力する

一方で飯村は県議在任中に、第六十二銀行の頭取に就任します。これは、当時の茨城県令(現在の県知事)と、水戸藩の御用商人から東京川崎財閥を率いるようになっていた川崎八右衛門(かわさき はちえもん)に、経営が悪化していた第六十二銀行の再建を要請されたためでした。31才で頭取に就任した飯村は、首切りにおびえる行員たちを集めて、「今後は諸君の力を借りて銀行回復を図りたい」と演説。東京川崎財閥からの支援を受けつつ、行員の心と力を一つにまとめていくことによって、5年ほどで経営を再建させました。この第六十二銀行は現在の常陽銀行となり、業界第3位の規模を誇る地方銀行となっています。
また飯村は、水戸-小山間に鉄道を設けるために創設された水戸鉄道株式会社の取締役にも就任して、茨城県での最初の鉄道を実現させます。こうして実力を蓄えていった飯村は、第1回衆議院選挙に出馬し、森と共に当選します。そして衆議院議員となった飯村は、板垣率いる自由党の一員として予算関係の理事にも選任されて、国会の場で活躍するようになりました。

茨城新聞社の第2代社長となり経営再建に成功

一方、現在の茨木県潮来市で民権結社を結成し、国会開設の請願活動では茨城県の総代を務め、飯村と同じく県議会議員を務めていた関戸覚蔵(せきど かくぞう)も、第1回衆議院選挙に出馬しました。しかし、政府‐県寄りの新聞である『茨城日報』から選挙妨害キャンペーンを受けて落選。その反省から、『茨城日報』に対抗するための新聞『いはらき』を、仲間と共に創刊します。ところが自前の印刷機を持っていなかったため、東京で印刷した新聞を、鉄道水戸線で水戸へ運んでから読者へ配送しなければならず、すぐに経営は悪化してしまいます。そこで関戸たちは、飯村に新聞社の社長に就任してほしいと要請。最初は断った飯村でしたが、最終的には社長に就任して、前述したように経営再建を実現します。

衆議院議員を引退してビジネスに専念

さて新たに始まった国会では、政府と、自由民権運動の中から議員となった人たちによる、いわゆる民党勢力が激しく対立。そのため1年余りで解散となりますが、飯村は第2回衆議院選挙にも出馬して当選します。しかし、それから1年半ほどでまた解散。飯村は、次の衆議院選挙への出馬を断念します。これは、2回の選挙で資金を使い果たしてしまった飯村が、自宅のケヤキや杉、松を売って資金を作ろうとした所、「先祖から代々続く飯村家を守る必要がある」とした飯村の父が猛反対。家や田畑、山林などすべての名義を飯村から取り上げ、義弟の名義にしてしまったためと言われています。
衆議院への出馬を断念した飯村は、政界からの引退を決意、以後はビジネスの世界へ自らの力を注ぐ事となりました。そして、東京川崎財閥系の日本火災保険(現在は損害保険ジャパン日本興亜)、日華生命保険(現在はマニュライフ生命保険)、京成電気軌道(現在の京成鉄道)といった企業で要職を務め、ビジネスの世界で確たる地位を築いていったのです。


(報恩感謝の石碑)

「報恩感謝」の精神で私財を投じて私立中学校を創立

このように、東京のビジネス界で活躍していった飯村ですが、70才の時に関東大震災で東京の家が焼失したため、水戸に移住します。こうして茨城の地に戻った飯村は、教育事業に力を注ぎます。まずは、茨城育才会という育英事業の基金集めに奔走。また、水戸学(江戸時代に水戸藩の中で形成された政治思想)を学ぶための私塾である、水戸学院の経営を応援します。そして、この水戸学院を基にして、正式な私立中学校(現在の高校)を創立する事を、飯村は決意します。大正時代の末期から昭和の初期にかけての時期は、中学校への進学熱が高まるようになった時期でした。その一方で、水戸には県立水戸中学校(現在の水戸一高)しかなかったため、多くの若者が進学できない状況があるのを見て、飯村は私立中学校創立の意志を固めたのでした。また、東京専門学校(現在の早稲田大学)を創立した大隈重信と国会議員時代に交流した経験から、私立学校の意義を飯村は強く感じていたからとも言われています。
こうした飯村の一生を通しての信条は、「報恩感謝」というものでした。これは「自分の今日があるのは多くの人たちのおかげだから、その恩に報いるために行動する」という精神。飯村はこの精神に基づいて、現在ならば10億円以上とも言われる私財を投入し、文部大臣に直接働きかけるなどして、茨城中学校(現在の茨城高校)を創立します。現在、国公立大学に100人以上の進学者を送る進学校となっている茨城高校を訪ねて、その校門を入っていくと、そこには飯村丈三郎の銅像と「報恩感謝」の石碑が静かに存在しています。背を正し、厳しい顔つきで真っすぐ前を見つめる飯村の像。その姿からは、政治、経済、教育それぞれの分野で、自由を求めて新しい時代を切り開いていった人物としての、凛とした精神を感じさせられた次第です。


(茨城高校校門)


中村英一
中村英一


自由な社会を目指して、現代日本での自由民権運動を志す自由民権現代研究会 事務局長。2012年に静岡県で行われた「浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票の実施を求める直接請求活動」という、県民の政治への直接参加を求めた県民大衆運動の事務局次長として、17万余の静岡県民の署名を集めることに貢献。民主主義の進化を求めて、浜岡原発の再稼働の是非を問う県民投票の実現を目指す、原発県民投票静岡2020代表。より良い国民投票の実現を目指す、国民投票静岡代表を務める。中央大学法学部卒業。

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