自由民権運動の壮士たち・第3回 江原素六(静岡県・東京都) 東大合格者100名の名門麻布高校を創立した男( 前篇 )


東京にある麻布高校と言えば、今年も約100名の東大合格者を出した全国でも屈指の名門校ですが、この麻布高校の創設者であり、亡くなるまでその校長を務めたのが江原素六(えばら そろく)という人でした。


出典:沼津市江原公園内に立つ銅像(筆者撮影)

静岡藩の陸軍士官学校である沼津兵学校を運営

江原は、幕末に幕臣の子として江戸で生まれました。江原家は江戸城内の掃除や雑用をこなす最下層の家だったため生活は苦しく、つま楊枝作りの内職をして生計を立てていたようです。しかし、本人の努力や周りの協力もあって、江戸幕府の軍事教育機関である講武所(こうぶしょ)で西洋砲術を指導するまでになりました。明治維新の後、静岡の地に移った徳川家と共に沼津に移住。新たに設置された静岡藩の幹部として、藩の陸軍士官学校である沼津兵学校の設立作業に参加します。
 新設された沼津兵学校では、フランス式軍隊を目指す近代的な教育が行われました。その内容は、軍事以外では英語やフランス語、数学、物理、化学、天文、世界史、世界地理、経済学など時代の先端を行くモノ。幕府の遺産である蔵書や設備というハード面でも、教育内容のソフト面でも、当時の最先端の教育機関であった沼津兵学校。その運営を任された江原は、金融や海運ビジネスを行なって得た資金で学校の運営を図ります。


出典:沼津兵学校址の碑(筆者撮影)

渡米してアメリカの産業と教育を学ぶ

ちょうどその頃明治政府によって、全国各地の有力な藩から欧米に視察団が送られる事となり、静岡藩から選ばれた江原もその一員として渡米します。江原はアメリカで、牧畜業などの産業と教育を中心に視察をします。また、この視察団に高知藩から派遣されていた片岡健吉【かたおか けんきち:後に板垣退助らと共に自由民権運動を始め、衆議院議長も務める】と交友を結ぶようになりました。この片岡との関係が、後に江原が自由民権運動に参加していく理由の一つにもなったようです。
一方、江原が渡米している間に廃藩置県が行なわれて、静岡藩は消滅。沼津兵学校も政府の機関となって東京に移転し、兵学校の仲間たちも明治政府の下で働くために東京に戻って行きました。帰国後江原は沼津に留まる事を決め、職を失った元幕臣の仲間たちのために様々な事業にチャレンジする事となります。

牛や羊の牧畜による混合農業にチャレンジ

まずは、沼津の地にある愛鷹山(あしたかやま)のすそ野の土地を使用する許可を、静岡県から手に入れ、その土地を使って桑やお茶の栽培を行います。そして、土を改良する肥料を手に入れるために、牛や羊の牧畜業も始めます。牧牛社や混合農社といった結社を結成して、牧畜で得た肥料で桑や茶を栽培していくという、いわゆる混合農業の事業にチャレンジしたのです。そして、東京での博覧会に出品した牛が優秀賞を取るところまで、牧畜業を発展させます。しかし、「牧畜業は肉食の悪習慣を奨励し、国体に背くものなので中止を命ずる」という政府の妨害に合うなどして、牧畜業は5年ほどでほとんど失敗に終わってしまいました。


出典:輸出用の茶箱に貼られた積信社のラベル(筆者撮影)

アメリカへのお茶の直接輸出にチャレンジ

その一方で、お茶の栽培事業は順調に成長していきました。幕末に日本が開国して以来、お茶は日本からの輸出品の中心となりました。日本のお茶は、紅茶の代用品としてアメリカで大人気になっていたのです。しかし、生産したお茶を輸出する事業は、外国人商人によって独占されていました。そのため、外国人商人に多くのマージンを取られてしまうという問題があり、こうした状態を打ち破るために、日本人が直接アメリカに輸出するという事業に江原たちはチャレンジします。
積信社という会社を設立した江原は社長に就任。地元の農家から買い集めたお茶を、三井物産を通じてアメリカに直接輸出していきました。こうした積信社の事業は順調に推移し、来日したグラント・アメリカ大統領の訪問を受けるほどだったと言います。しかし、粗製品が輸出された事などによって、アメリカでのお茶の売り上げは一時減少、積信社の事業も赤字転落して、最終的には解散に追い込まれてしまいまいました。

国有林の民間払い下げを実現

さて、こうした牧畜やお茶の栽培が行われた愛鷹山のすそ野は、江戸時代は入会地(いりあいち)として地元の農民たちによって共同で利用されていた土地でした。しかし、明治の初めに国有化されてしまい、困った地元の農民たちは、江原に明治政府との交渉を依頼。江原は、再び民有に引き戻す運動を粘り強く展開していきます。そして20数年かけて、地元への払い下げを実現。以後、地元農民たちによる植林や開墾、お茶の栽培などが取り組まれていく事となりました。そして現在でも愛鷹山周辺では、江原たち先人のチャレンジとその精神が受け継がれ、「あしたか牛」というブランドの和牛の飼育や、お茶の栽培が盛んに行われているのです。


江原の名は地元産のお茶のブランド名にも(筆者撮影)

キリスト教への入信と自由民権運動との出会い

教育への関心も強かった江原は、沼津兵学校の流れを受け継ぐ学校として沼津中学校を設立し、校長を務めます。外国人による英語教育を実現するために、カナダ・メソジスト教会の宣教師を沼津の地に江原は招きます。そして、彼の影響を受けた江原や教員たちはキリスト教に入信します。また、この頃盛り上がり始めた自由民権運動に生徒たちが参加する事を江原は黙認。生徒たちは観瀾社(かんらんしゃ)という演説結社を作り、民権家の演説会に参加したり、演説の練習を行なったりしたと言われています。こうして、江原の自由主義的な考えの下、沼津中学校はキリスト教や自由民権運動と出会う事の出来る自由な気風の場となっていったのです。

江原自身も、自由民権運動のリーダーである板垣退助【いたがき たいすけ:自由党を結成して党首として運動をけん引。後に内務大臣を務める】との出会いを通して、自由民権運動に参加して行きます。自由党が結成された5か月後に、沼津の名刹である乗運寺で行われた板垣の演説会で祝文を朗読した江原は、その後板垣と共に東海道の各地で遊説活動を続けて行きます。そして、板垣が岐阜で暴漢に襲われた岐阜事件が起こるまで、板垣と行動を共にしたのでした。(後編へつづく)


中村英一
中村英一


自由な社会を目指して、現代日本での自由民権運動を志す自由民権現代研究会 事務局長。2012年に静岡県で行われた「浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票の実施を求める直接請求活動」という、県民の政治への直接参加を求めた県民大衆運動の事務局次長として、17万余の静岡県民の署名を集めることに貢献。民主主義の進化を求めて、浜岡原発の再稼働の是非を問う県民投票の実現を目指す、原発県民投票静岡2020代表。より良い国民投票の実現を目指す、国民投票静岡代表を務める。中央大学法学部卒業。

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