<前編>新春対談・福田峰之・内閣府元副大臣×喜多埜裕明・元ヤフーCOO


(TUF編集部より)The Urban Folksでは先進的な知見を持つ政治家の方々の対談企画を連載しています。福田峰之・元内閣府副大臣(IT担当)にご協力いただき、テック系企業経営者との対談等を通じて、現代の政治とITの関係を映し出していきます。第一回は元ヤフー株式会社のCOOを務められた喜多埜裕明氏との対談を通じて、インターネット、IT、そして政治の役割について紐解きます!

(左・渡瀬裕哉(TUF編集主幹)、中・福田峰之・元内閣府副大臣、右・喜多埜裕明元ヤフー株式会社COO)

福田峰之(以下、福田)
今回、政治家として自らIT政策に長年関わってきまして、まず今回の企画は歴史をずっと遡ってみて、日本のインターネット黎明期から振り返るところから始めたいと思います。喜多埜さんは、ITと呼ばれないでイットと呼ばれた黎明期、ヤフーで活躍されて日本の中にITが浸透するプロセスのスタートにいたわけですが、改めて最初の黎明期には何を意識してスタートして、そしてどのようなプロセスを踏まれたのでしょうか。ぜひ、喜多埜さんの実感からくる日本IT政策のスタートをお伺いしたいと思います。

喜多埜裕明(以下、喜多埜)
僕の場合は、日本でインターネットに初めて触れたというよりも、アメリカに住んでいた時に先にインターネットに触っていました。その前にもAOLとかコンピューサーブなどがアメリカで流行ってましたね。インターネットはそれらを繋ぐための導線であって、ネット普及の前はパソコン通信で繋がっていました。当時も実際にやっている人は少なかったのですが、コンピューサーブ、ニフティー経由で新聞社の情報や掲示板を読めていたんですね。その後、回線がインターネットになり、見る方法がAOLではなくウェブに変わっていく中で更に色々な情報が取れるようになる姿を、95年前後にアメリカに10年住んでいたときに全部見ていたんですね。その時、これは絶対便利だろうなと思って、アメリカから日本に帰ってきてヤフーに入社することになりました。

福田
当時既にヤフーはできていたわけではあるけれども、まだまだ日本にインターネットの概念は存在していなかったわけですが、最初のメンバーは何を思って入ってきたのでしょうか。

喜多埜
そうですね。ヤフー1年目の途中に自分は入社したんですよ。孫さんも当時アメリカに強力なパイプを持っていたので、アメリカの人から色々なことを習っていたんですよ。そして、インターネット凄い、ウェブ凄いと確信して、そこで何としても出資させてほしいと交渉したのですが、最初は出資を断られていたんですけれども、何度も交渉してお願いをして日本にヤフーを持ってきました。やはり米国の事例を見て日本で拡がることを確信した先見の明があった何人かが飛びついたわけです。

福田
ヤフーに入社した当時インターネット自体への認識広めるために何をやろうと思いましたか。

喜多埜
これは記事になるかどうかはアレなんですが、実はメディアの流行はアダルトからだったので、それらを綺麗に情報整理するところから(笑)そして、学校、個人、団体、企業などの先進的なところがペラ一枚の情報を出すようになっていったのですが、まずHP作ってヤフーに登録しましょう、という形でPRしていきました。今はキーワード検索ですけど、当時は皆がワープロで打ち込める環境ではなかったので、14カテゴリーに分けて様々な情報に辿りつけるようにしました。これは多くの人が見に来るだろうなと確信しました。

福田
その先進的な人たちもアメリカの状況を見て自分たちもやろう、ということになったわけでしょうか。

喜多埜
そうだと思います。そして、ソニーが作ればパナソニックも遅れちゃいけないとかになるわけです。初期の頃から広告をつけてくれた企業はIBMでした。やはり本社が米国にある企業が最も先進的だったからでしょね。IBMが広告を出すとソニーがやらなきゃ、NECがやらなきゃ・・・、というような流れですね。

福田
一方、HPを作ったは良いけれども、見に来る個人はどうやれば良いかわからなかったわけですが、どうやって訴求していったんでしょうか?

喜多埜
色々なことをしましたね。たとえば、Yahoo! Internet Guideのような「インターネットに繋ぐとこのようなページが見られますよ」ということを訴えかけてみると「それって面白そうじゃん」って思ってくれる人が増えてきたりしました。それ以前からパソコン通信を始めていた人達は、インターネットに自然に流れていきましたね。
パソコン通信すら使っていなかった人たちに対しては雑誌を出して啓蒙して行くことと、もう一つは96年にサービスを開始して97年には店頭公開をしたので、新聞にも「ヤフー」という名前が出てきました。リリースも打ちまくったり、当時でいうと「月間100万ビュー突破」みたいなことだけで日経に載っていたりしていましたね(笑)

福田
つまり、その頃にテクノロジーの進化、デバイスの進化、国民の意識が揃って上がったんですよね。どれか一つが突出して上がっていたわけではなくて、一緒になってサンドイッチみたいな形で変わっていったんですね。

喜多埜
アメリカや他の国も一緒に上がっていきましたね。その、最初は本当にページをみるのもタラタラしていたけども、競争だからハイスペックCPUを積めるように努力したり、回線も元々電話回線だったものがISDNになり、ダークファイバーを使ったADSLになって…とみんなでやっていった感じですね。

福田
アメリカから帰ってきたら日本では「Yahoo!」が「ヤッホー」って呼ばれていたじゃないですか。インターネットなんてわからない周りの人はどういう反応をしていたのですか?

喜多埜
そうなんですよ。銀行員や製薬メーカーに勤めていた友達などは「よくわかんないとこに入ったねぇ」なんですよ。
でも今では彼らは「今思えば入っとけばよかったぁ」なんて言ったりしてますけどね(笑)

福田
そうでしょうねぇ!僕も政治に行くのではなくてヤフーに転職すれば良かった(笑)だけど、新しい進化を遂げて行くときって必ずあるじゃないですか。そういうところに世の中は受け入れないけどチャレンジするのか、有名になってから入るのかは人の考えの違いなんだけど、よく選択しましたね。ヤッホーに行こうなんて。

喜多埜
まぁ何も考えてなかったんでしょうね。でも「便利だな」とは思っていたんですよ。だから、僕がよく講演会等で言っているのは多くの人が便利だと思うものは流行るということですね。ビジネスモデルさえ間違えなければ、マネタイズはみんなが使ってくれれば後で考えれば良いってことですね。

福田
僕が今でも覚えているのは田園都市線の沿線駅で若い人がモデムをデカイ声出して配っていたことですね。あの行為って後のビジネス展開に大きかったんですか?

喜多埜
実はヤフーで最初委募集して契約者が100万人はすぐに集まったんですよ。でも、孫社長はそれじゃだめだと。俺たちの、ヤフーの力はそんなもんかと。だから、自分たちで外で配ることになったんです。その影響は大きかったですね。あれを始めた当時もブロードバンドは少しはあったんですよ。でも月額8,000円とかでとても高かった。それを2,280円だとヤフーで宣伝してモデムを配りまくったんですね。それによって、スピードが速くなって広告貼るスペースも増えたわけです。ソフトバンクは何千億の大赤字だけどヤフーはその恩恵を非常に受けましたね、ソフトバンクの人に怒られながら(笑)。「通信インフラを持つ」というのが孫さんの頭にあったんでしょうね。だから赤字が出てもかまわなかったわけです。さらに、インターネットはPC文化だったので本当に全国民になったのは携帯になったからですよね。当時の新聞の情報を見るだけでも課金モデルだったんですが、ボーダフォンを買収したときに「Yボタン」をガラケーにつけて誰でもブラウザを開いて自由に見られるボタンをつけたんですよ。そして、主婦も高齢の方も皆が使えるようになりました。あのボタンをつけるためにヤフーは1200億円出資したんですよ、総額は1兆円7000億円を超えていたんですが、それにしても高いですよね(笑)

福田
まさに、その頃に政府も本腰を入れ始めましたね。高度情報通信ネットワーク社会形成基本法案、長すぎて忘れそうな法律名なのですが、要はIT基本法を森喜朗総理が作ったんですよね。企業体がサービス提供していくプロセスの中に政府が協力していくという位置づけだったんですよね。ビジネスモデルが上がってこない中で、単純に政府がやりますって言っても話が進まないので丁度良いバランスで政策がスタートしたんですよね

喜多埜
97年に店頭公開したときに、申請書類をリスク情報などを事業側として政府に説明しに行く仕事をやりましたね。夏だったので狭っ苦しい部屋で汗をびっしょりかきながら説明したんですけれども、相手の人はポカーンとされてましたね。結局、よくわからないみたいだったんですけれども、まあ良いかみたいな形で通っちゃって(笑)

福田
まあ良いか、は今でもそうですよね。役所は自分たちが分からないものは「福田さんが言うなら良いんじゃないですか」みたいな感じで(笑)実際、新しいビジネスモデルに役所はついてこれなかったですよね。マウントゴックス事件発覚時のビットコイン対策もそうでしたね。今困っているものを直すことは政府がやるわけだけれども、将来はこうしなくちゃいけないって話になると議員立法になります。IT基本法を補完する形で、サイバーセキュリティ基本法や官民データ活用推進基本法をつくりましたが、これらは正に私が実務者として関わった議員立法です。

後編(2018年1月9日)に続く


福田峰之
福田峰之

前衆議院議員
1964年生まれ、目黒サレジオ幼稚園、東京学芸大学附属世田谷小・中学校、神奈川県立白山高校、立教大学社会学部卒業。衆議院議員秘書、横浜市会議員(2期)、衆議院議員(3期)。内閣府大臣補佐官、内閣府副大臣を歴任。多摩大学ルール形成戦略研究所客員教授。2017年「希望の党」から東京5区(目黒区・世田谷区、一部除く)で立候補するが落選。

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