自由民権運動の壮士たち 第6回 桑原重正(新潟県)


【出典】若き日の桑原重正の肖像写真

長野県との境の山あいに、新潟県津南町(つなんまち)という人口約1万人の小さな町があります。この津南町で先日行なわれた町長選挙の結果、全国最年少の女性町長が誕生しました。若き町長となった桑原悠(くわばら はるか)さんは、地元出身の前町議。町議一期目に結婚し、一男一女を育てながら町議を務めて来ました。そして今回、人口減少が進む津南町の未来を変えるために町長選にチャレンジし、見事に当選を果たしたのでした。
一方、この津南の地にはかつて、約40年間村長を務めるなどして、地元の自治と自立のために一生を捧げた桑原重正(くわばら しげまさ)という人がいました(※この地域には桑原姓が多いため、桑原悠さんと直接の縁戚関係は無いものと思われます)。

【出典】選挙戦での桑原悠さん ユースデモクラシー推進機構提供

桑原は江戸時代の終わり頃に、中魚沼(なかうおぬま)郡秋成(あきなり)村【現在の津南町秋成区】にあった、大阪屋という雑貨屋を営む家に生まれました。そして桑原は少年期に、長岡藩の藩士だった長沢慎五郎(ながさわ しんごろう)が開いた赤山義塾で学びました。
長沢は若き時に江戸に出て、儒学者の佐藤一斎(さとう いっさい)から陽明学を学びます。知行合一【ちぎょうごういつ:知識と行動は一体化してこそ価値がある】を唱える陽明学は、勝海舟、吉田松陰、西郷隆盛など幕末期に活躍した青年たちに多くの影響を与え、彼らの先駆的な行動の根拠となった思想です。この陽明学を学んだ後に故郷に戻った長沢は、秋成村の隣りの深見村にある龍源寺で、赤山義塾という塾を開きました。そして、桑原や嶋田茂【しまだ しげる:自由民権家として桑原らと共に活動】たちに陽明学を教えます。この知識と行動の一体化を求める陽明学の考えが、後に桑原たちが自由民権運動を積極的に行なっていくための、思想的な基盤を作り上げたものと思われます。

知識と行動の一体化を求める 陽明学が思想的基盤に

その後、大阪屋の経営を引き継いだ桑原は、呉服業や質屋業などを営むと共に、永盛社という地元の金融機関の社長になるなどして、地元の経済発展のために尽くしました。一方、国会開設を求める運動が全国的に盛り上がっていく中で、新潟県でも国会開設を求める組織(国会開設懇望協議会)が作られて、県内全体で1252名の人が参加。その中で津南地域からは、桑原と嶋田の努力もあって50名もの参加者がありました。

そして嶋田は、協議会でまとめた国会開設を求める建白書を携えて、会の代表として上京し政府に提出します。この建白書の内容は、「国力を高め、国を富ますには、国民の権利自由を保障し、国の独立を図らなければならない。そのためには国民に参政権を与えて国会を作り、憲法を作らなければならない」という、現在の視点で見ても極めて真っ当でストレートな内容でした。

【出典】赤山義塾をたたえる碑

一方桑原は、地元の秋成村で仲間と共に演説会を始めます。夜の7時から11時まで行なわれたという熱気あふれるこの演説会は、定例化され、12月の豪雪が降る日にも120名もの参加者を集めるようになっていきました。そしてこの会を基盤として、桑原たちは中津共同会という政治結社を結成します。桑原は、自らの経済活動で得た資金で数多くの新聞や雑誌を購入。大阪屋の場所を使って、中津共同会の会員が自由に購読出来るようにし、集まった会員たちと討論や演説などの活動を活発に行なっていったのです。

県内各地で 自由を求める演説会を行ない 雄弁をふるう

そして、こうした動きを新潟県内各地に広げて組織化を図っていくために、県内全域での演説会が企画されます。そこで、自由民権運動の理論的指導者の一人である馬場辰猪【ばば たつい:福沢諭吉に学んだ後、英仏に留学。帰国後、新聞などで民権論を唱える】が招かれます。県内各地で30回行われたこの演説会は、全体では約4万人もの参加者を集める盛大なものとなり、桑原も馬場と一緒に県内を遊説して回ったのでした。桑原はこの時、弱冠24才。馬場からも、その演説や行動力が高く評価されたようです。
こうした活動の成果もあって、北辰自由党や頸城【くびき:現在の糸魚川市、上越市、妙高市などの地域】自由党といった地域政党が結成されます。このような県内各地の勢力を一つの勢力に固め、さらに発展させていくために、桑原は東京から招いた弁士と共に再び県内各地で演説会を行ないます。現在の糸魚川市から上越市、柏崎市、新潟市、新発田市などで21回行われた演説会には、約1万4千人が参加。桑原はそのほとんどの場で、集会や言論、出版の自由の必要性を訴え、雄弁をふるったそうです。

【出典】津南町の田園風景

こうした自由民権運動の盛り上がりを抑えるために、政府は規制を強化します。そして新潟県では、高田事件という警察によるでっち上げ事件が起こされて、3名の県会議員を含む民権活動家たちが逮捕されます。この時、県会議員だった桑原と嶋田は、「選挙民の権利として、3名を県会に出席させるべき」という提案を県会で行なって、3名の釈放を主張します。この提案は県会では可決されますが、残念ながら県当局には認められませんでした。
しかし桑原たちは、こうした状況にもめげることなく活動を続け、地域で500人や700人を集める演説会を行ない、活動を継続させて行きます。こうして高田事件以後も、桑原たちの自由を求める運動は弱体化することなく続けられていったのでした。

約40年間村長を務めて 村の自治と自立のために尽くす

この後桑原は、34才で秋成村の村長となります。それから、衆議院議員として活動した時期を除いて、亡くなるまでの約40年間、桑原はずっと秋成村の村長を務めました。そして、戸数320戸、人口2300人ほどの秋成村を治めていくために、「人権を重んじ自治の基本を固めるべし」「貯蓄金を奨励すべし」「経費を節減し殖富の方法を考え実施すべし」「植林を奨励し子孫の大計を図るべし」といった具体的な方針を掲げました。

こうした方針を実現するために桑原は、長野県の八二銀行と提携して秋成銀行や秋成信用組合を設立。これらを使って「貯蓄を奨励」し、「殖富の方法」を広げます。また、村費で買った杉の苗木を、家ごとに一定の割合で植樹してもらう形で「植林を奨励」し、村の共有林を広げて行きます。こうした植林活動を進める一方で、秋成森林組合を設立。この森林組合に共有林を管理させて、採った杉の木の売り上げを、道路や学校、水道などの費用に利用して、「子孫の大計」を図りました。このようにして桑原は、明治から昭和初期にかけての約40年間、村の自治と自立を具体的に追い求め続けたのでした。
 

【出典】現在のニュー・グリーンピア津南

時は流れて1970年代の田中角栄内閣の時に、当時の厚生省が年金を使って、全国各地にグリーンピアという大型保養施設の建設を計画します。田中総理の出身地である新潟県にも、このグリーンピアが造られる事となり、津南町がその対象地となりました。そして、桑原たちが作り上げた共有林をふくむ広大な土地が売却されて、「グリーンピア津南」という大型保養施設が建設されたのでした。

その後、グリーンピア事業は行き詰まり、膨大な赤字を抱える事になります。そして、小泉純一郎内閣が進めた行政改革によって、この事業の廃止が決定。これによって、「グリーンピア津南」も廃止となったのですが、地元の要望などもあって、国から津南町に全面的に譲り渡される事となりました。その後、「ニュー・グリーンピア津南」としてリニューアルされて、現在に至っています。このような大型施設をどのように維持していくのかも、今後の津南町政における大きな課題の一つとなっているようです。

【出典】桑原の業績をたたえる碑

新たな時代を求めて行動した若き桑原たち。彼らが津南の地で具体化していった、自治と自立の精神。その自治と自立の精神は、どのように現代の津南町に受け継がれ、具体化されていくのか。人口減少と高齢化が進む時代の流れの中で、若き女性町長を中心とした津南町の人たちは、どのように新しい時代を切り拓き、未来の津南町を創っていくのか。
かつて桑原たち津南の若者たちが、郷土の未来を熱く語り合った大阪屋。その跡には現在、桑原たちの業績をたたえる石碑が立っています。この地に眠る桑原ら先人たちの魂は、彼女たちのこれからの行動を、大きな期待を持って見守っているのではないかと、粛然と立つ石碑を前にして思った次第で。


中村英一
中村英一


自由な社会を目指して、現代日本での自由民権運動を志す自由民権現代研究会 事務局長。2012年に静岡県で行われた「浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票の実施を求める直接請求活動」という、県民の政治への直接参加を求めた県民大衆運動の事務局次長として、17万余の静岡県民の署名を集めることに貢献。民主主義の進化を求めて、浜岡原発の再稼働の是非を問う県民投票の実現を目指す、原発県民投票静岡2020代表。より良い国民投票の実現を目指す、国民投票静岡代表を務める。中央大学法学部卒業。

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