Edtechと文理融合教育(2)ーSociety5.0を見据えた社会学者の奮闘記ー


【出典】フリー素材ぱくたそ 

「学際的」とか「文理融合」という言葉が提唱されてから、既に30年以上経過している。それはやはり、縦割りの学問領域を前提とした知性では、現実の問題を解決できないという問題意識があったからだろう。しかしながら、そうした知性が、現実の問題解決に生かされたという例は、あまり聞いたことがない。日本においては、AIによるデータ分析の成果が経営に生かされないというが、その原因が予算を管轄する部門の理解を得られないことにあるらしい。「千里の馬は常にあれど、馬喰は常にはあらず」ということか。

教育の情報化、という言葉が世上に出てきたのは、小生が助手として大学に職を得た頃だから、かれこれ4半世紀前、ということになろうか。

当時、教育でのPCの活用のあり方などをテーマとして、コンピュータ利用教育協会という団体が結成され、いろいろな議論がなされるようになった。それから情報化の局面は目まぐるしく変化し、今や、IoTやAIについての議論がなされるまでになった。ただし、文科系の領域では、そういったことに対する反応は鈍い。社会学を専門とする小生が、東日本大震災に関する調査を行い、被災者支援活動の質を上げるためには、義援物資のマッチングシステムが必要だと提唱。事業提案も虚しく予算獲得ができず、自らシステムを作ってトロンショーで展示したところが、同年代の研究者からは「それは社会学者の仕事では無い」とバッサリ。

ところが、齢80を超えた恩師に展示内容をお見せしたところ、「天野くん、これは社会学だよ」と一言。学際的という言葉も、文理融合という言葉も、問題発見・問題解決という言葉も、若い世代になるほど「謳い文句であって、現実にやるものではない」という形に、後退しているのかもしれない。

Edtechの報道を見て思い出したのは、スクラッチを活用したプログラミング教室や、マイクロビットを活用した社会活動である。子供達には自分自身の力で貧困の再生産の鎖を断ち切り、自分の人生を切り開いていってもらう必要がある。そのような理念のもと、マイクロビット財団は英国で活動を行い、プログラミングに必要な論理的思考能力を身につけるのに役立つマイコンボードを、100万人の子供たちに配布したという。ブリュデューのいうところの「文化資産」にもとづく階級の「再生産」構造を、子供達が自分自身の力で打ち破ろうとする努力を、一民間企業が、テクノロジーの力を使ってで支援しようという試みは、非常に興味深い。

私どもの研究室でも、子どもの貧困対策として、小学生を対象としたプログラミング教室を開催したことがある。活用したのは、前出のスクラッチと、マイクロビットだった。社会学を学ぶ学生たちは、最初こそとまどったものの、子供たちに教えるための技術習得に、次第に熱中していった。

某小学校の先生方の協力で500枚のチラシを配布し、当日の参加は6名に過ぎなかったが、文科系の若い学生たちの助けもあって、参加した子供達は皆次第に熱中し、予定時間を過ぎてもなかなか帰ってくれなかったのは印象的だった。この試みは、小生の緊急入院により、早稲田大学の研究機関の支援を得た教員によって受け継がれ、市の児童館の主催という形で継続されるに至っている。

さて、ここで考えなければならないのは、プログラミングによる論理的な思考ができる人材が生まれ、AIやロボットを使いこなす新しい世代が誕生したとしても、そうした世代は職場で・社会で、そうしたものを身につけていない世代と共生することに少なからぬストレスを感じ、時に虚無感に襲われることになる可能性が高いことである。夏目漱石の代表作『草枕』の一節、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」。

統計学とプログラミングの教育は、そういったこととは無関係だ。そこに、STEM教育が必要な所以がある。もちろん、「新しい時代に対応できる教育」を受けた世代が、社会に出てその力を存分に発揮できるようにするための、仕組みづくりもまた、重要であることはいうまでもないが。

今ひとつ問題なのは、日本社会には自ら努力して能力を発揮する人に厳しく、努力を放棄して能力を発揮しない人に優しい、という体質が根強く猫っているということだ。そしてこうした新しい教育は、新たな格差を生み出す可能性が高い。さらにAIとロボットは、いわゆる中間階級の仕事の多くを奪うことになる。変化の激しいマーケットに対応するための、アジャイル型の開発は、古い体質の管理職には理解不能だろう。成功確率が1000分の3未満といわれるイノベーティブな研究に資金をつぎ込むことは、株主の合意を得られない可能性が高い。業界の秩序や人間関係を尊重する日本では、業界のあり方そのものを破壊・再編するような研究成果が活かされることは、考えにくい。こうした事態は、文系頭が支配するマスコミの、絶好の批判対象になるかもしれない。

聖書にいう、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」と。Edtechに代表される新しい教育によって育った若い世代が、古い世代が牛耳る政府・マスコミそして会社組織の中で、イノベーションの芽を摘まれ、海外のイノベーションに追随するためだけの場しか与えられないとしたら、自国の経済活性化のための教育政策が、有為の人材の海外流出を促進するだけになってしまうのは明らかだ。

私自身は、現在行なっている教育改革の成果が、新しい人材を育成できるか、多少懐疑的な目で見ているが、それはともかく、新しい人材たちがその能力を存分に生かして社会に貢献できるような「新しい皮袋」に、その時の大人たち、すなわち「教育改革以前の世代」は、自らを、そして社会を変えていくことができるのか。人生100年時代を迎える中、大人たちの変革も求められているのだが、そのことに気がついて自分を変えていくことのできる人たちは、どれだけいるのだろうか。大学の教員でさえ、その意識は低い。そうした人たちが採用する若手研究者は、もっと低いかもしれないのだから、現時点では絶望的なんじゃないか、という危機感を強く持っていたりする。

トロンの構想する未来、そしてSociety5.0が描く未来は、実に非常にまことに素晴らしいものであることは、間違いない。しかし、文理融合という言葉を頼りに、文系の目からみた時、その未来社会がどのようなものになっているのかということについての、豊かな描写にお目にかかったことは、残念ながらいまだない。テクノロジーは色々なものを与えてくれるが、同時に様々なものを奪う。そして人は、奪われてしまったものが、実は社会にとって、非常に重要な意味を持っていたことも、忘れてしまう。そのことに気がつくのが、文系的な知性であり、それを時代に合わせる形でどのように再生していくかを提示して実装していくことも、また、文系的知性があればこそ可能なことなのだと思う。

そして、文理融合型の問題解決の知こそは、統計学とプログラミング技術を当たり前に備えた世代が作る時代にこそ、必要とされるものではないか。そうした営みの中でこそ、日本の中に多様な価値観・ライフスタイルが共存する社会を根付かせることができるし、その多様性こそがレジリエンスを備えた社会システムの基盤になるのではないか、と思うが、どうだろうか。


天野徹
天野徹

明星大学人文学部人間社会学科教授。
専門は、情報社会学・社会統計学・都市社会学。東京都立大学大学院博士課程単位取得中退。社会学をベースに、文理融合・問題解決の知のあり方を追求してきた。(財)あしたの日本を作る協会の委員として、webサーバーを立て、「地域づくり運動情報データベース」を構築・公開。社会調査の領域に、ハイパーテキストを活用したプレゼンテーション作りや、3Dモデリングによる景観シミュレーションを導入。東日本大震災の後、自ら提唱したコミュニティ・ネットワークの理論をもとに、災害レジリエンスを備えた社会システムと、それを実現するための情報システムを構想。PHP、Java Script、CSSなどを用いて、義援物資マッチングシステムと避難所情報収集システムを構築し、サービスを公開。現在は、インバウンド等の災害対策として、AIを活用した被災者・帰宅困難者誘導システムの構築・一時滞在施設確保のためのビジネスモデルの構築と社会実装に取り組んでいる。

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