Edtechと文理融合教育(3)ーSociety5.0を見据えた社会学者の奮闘記ー


【出典】フリー素材ぱくたそ

小学校からのプログラミング教育、ということの対極にあるのが、福井県鯖江市のJK課であろうか。

地元の女子高生が、課外活動のノリで、自分の街をよくしていこうというもので、発足からすでに五年を経ている。メンバーはいわゆる進学校の生徒ではなく、卒業後地元に就職する人が多い商業高校・工業高校の生徒たちとも聞く。彼女たちは自分たちで活動の内容を決め、イベントを行ったりアプリを作成したり、という活動を行なっている。私立の図書館の新刊本の入架状況や貸し出し状況を知らせるアプリは、その成果だという。彼女たちの活動は地域の大人たちを巻き込んで拡大していく。おばちゃんたちが集まって作ったOC課もまた、若い力に刺激を受けてのことだろう。2014年の発足以来、地元のJKたちは、政治家や大企業の力を借りなくても、地域をよくすることはできると実感し、活動を展開してきている。

教育2.0も良いのだけれど、一人一人の進度に合わせて自分のペースで学習できる環境は素晴らしいのだけれど、それは「できる」子供達の話だ。勉強が苦手で、いつもダメ出しをされて、人の二倍かけても一つの単元が終わらないとなれば、子供達はコンプレックスを感じて、学校に行くのが嫌になるかもしれない。いや、小学校から落第がある海外では、それも自分のためと気が引き締まるのだろうけれど、基本的に大学入試以外で「周回遅れ」ことを経験しない日本の教育システムで、こうしたきめ細かい指導がプラスに働くとは限らないのではないか、と思う。そしてこうしたシステムに馴染まない子供達が実は、優等生タイプの秀才にはとてもできないような想像力や創造力を持つことは、珍しくない。アインシュタインもエジソンも、落第生だったのだから。

小生がEdtechに危惧するのは、「問題の本質を考えてから、その解決のアルゴリズムを導き出す」のではなく、「アルゴリズムの論理から、問題が解決されたことにする最も効率的な方法を考える」ということが、子供の頃から習い性になりはしないか、ということだ。統計学を学んだ学生は、往々にして一つ一つのサンプルの特性を確認することなく、出力された結果だけを鵜呑みにする。これが致命的な判断の誤りにつながることもあるわけで、edtechを当たり前のものとして育った若者にも、同様の危うさを感じるのは小生だけであろうか。edtechが、いわゆるエッジの立った才能をはじき出し、新たな意思決定時のリスクを生み出すだけになるとしたら、それは本末転倒というしかない。

こうした愚を避けるために、小生が実践したのは、集団KJ法であった。KJ法は今では単にカードを使って情報の階層構造を構築する手法と解されることが多いようだが、川喜田二郎氏から直に教えを受けた恩師にから学んだそれは、実に奥深いものだった。

KJ法を集団でやることの意義は、一つ一つのカードに込めた本質的な意味を、そのカードを書いた本人が、グループのメンバー全員に納得してもらえるまで説明することにある。その過程で、メンバー一人一人が、自分の抱いていたものを言語化しなければならず、さらに、その説明についてメンバーからの質問に答えなければならない。そこには、自己に対する問いかけと、他者との間でのコミュニケーションがあるわけで、そのプロセスの中で、それまでは思いもよらなかった言葉を発見し、他者に自分を理解してもらうための言葉を探すことになる。こうしたやりとりのなかで、参加者は自己を契機として他者を発見し、他者を契機として自己を再発見する。そのようなプロセスを経てこそ、とうけいてきにはたった一つのケースでしかない一個の人間の奥深さを知り、アルゴリズムでは解体できない実存としての人間を意識できるようになる。

そうした実感に基づく人間理解、そして、それを人間存在に対する深い洞察力へと昇華させて行くために必要な教養。

これこそが、AIやRobotに代替されない、人間として最も重要な魂とでもいうべきものであり、それを習得するために必要な時間を確保せんがための高度情報化であったはずなのだが、教育2.0の中にそうした「深み」を感じられないのは、一人小生のみであろうか。そのことに危惧を感じ、次の時代を担うべき若者たちに、彼らが生きることになる社会にふさわしい教養の形を示すことができないで、なんで文科系の研究者たりうるのか。そして、どうしてそのような問いを、文科系の領域の研究者たちに問い続けなかったのか。それは、研究者たちの怠惰であると同時に、政策決定の任にあるものたちの想像力の欠如がなせる技だったのではないか。そのような者たちに人生を翻弄される若者たちは、本人が自覚しているか否かにかかわらず、一個の人間として不幸ではないかと思うのだが、皆さんはどう考えるだろうか。

教育2.0には、学校教育を学校だけにとどめておくのではなく、地域社会に還元するという視点も含まれているという。しかし、かっての総合学習の時間が、数少ない例外を除いて惨憺たる結果に終わったりことは、記憶に新しい。その時と同じ学校という仕組みが、政策を変えたからといって十分に機能するかは、疑わしい。鯖江市と並ぶ地元の若者と市民の手による地域づくり活動が、どれだけ実現するだろうか。その活動は、形式的で管理されたものになってしまわないだろうか。教育内容からの発想ではなく、地域住民としての発想が、十分に生かされるだろうか。その活動を通して、児童や生徒たちが、統計処理の中ではほんの一ケースに過ぎない人間の、数値に還元できない実存について、想いを馳せることができるようになるのだろうか。

教育の現場では、子供達がそのような能力を身につけられるようにするための、情報環境の活用も試みられるべきではないか、と思うのだが。

そして今一つ注意しなければならないことは、鯖江市のJK課が卒業後に地元で就職するような若者たちであるのに対し、文科省が教育2.0で想定している学校と地域の交流は、大学進学や首都圏への進学を視野に入れている若者たちを想定していると考えられることだ。こうして明らかに異なる階層特性を持つ若者たちが、同じ地域に関わって行くことになれば、当然、活動内容や活動の質の違いが、地域社会の誰の目にも明らかとなるだろう。若者たちは無限の可能性を持っている。地域社会と関わり、問題解決に取り組む経験をすることによって、それ以前とは全く違う熱心さを持って様々なものに取り組むようになることも、珍しくない。その意味で、この施策の方向性は、悪くない。

しかしその際、地域社会の側に、若者たちを学校のランクという色眼鏡で見ることなく、様々な失敗を温かく見守り、学校だけでなく地域社会も地域の若者たちを育てて行くのだという気持ちがなければ、意図せざる結果を招く可能性が高いだろう。

そうしたことを避けるためには、地域特性や学校の特性に応じて、地域社会だけでなく企業や大学・研究機関など、様々な形で連携し、学校内での教育の成果を共有するという方向だけでなく、学外から様々なものを取り入れ、また、場合によっては学外に若者を送り込んででも、志ある若者たちが、まだ見ぬ未来の可能性に目覚め、自らの未来を自らの手で切り開いていけるような仕掛けを、たくさん作って行くことが必要となる。

すでに、山形県鶴岡市や渋谷学園渋谷高校など、確かな成果を挙げつつある興味深い試みもあるが、先行事例に過度に影響されることなく、多種多様なテーマで若い世代を惹きつけ、志ある若者をセクタを超えた協働体制で育てて行くことは、果たして可能なのか。文科省の施策はそのような問いを社会の側に投げかけたことになる。IoTそしてAIやRobotが、労働に必要な時間を大幅に削減してくれることが確実と見られる中、NPO,NGOや企業そして地域社会が、空いた時間を創造的な活動や次世代を育てる活動に活用してくれることが、期待される。


天野徹
天野徹

明星大学人文学部人間社会学科教授。
専門は、情報社会学・社会統計学・都市社会学。東京都立大学大学院博士課程単位取得中退。社会学をベースに、文理融合・問題解決の知のあり方を追求してきた。(財)あしたの日本を作る協会の委員として、webサーバーを立て、「地域づくり運動情報データベース」を構築・公開。社会調査の領域に、ハイパーテキストを活用したプレゼンテーション作りや、3Dモデリングによる景観シミュレーションを導入。東日本大震災の後、自ら提唱したコミュニティ・ネットワークの理論をもとに、災害レジリエンスを備えた社会システムと、それを実現するための情報システムを構想。PHP、Java Script、CSSなどを用いて、義援物資マッチングシステムと避難所情報収集システムを構築し、サービスを公開。現在は、インバウンド等の災害対策として、AIを活用した被災者・帰宅困難者誘導システムの構築・一時滞在施設確保のためのビジネスモデルの構築と社会実装に取り組んでいる。

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