Edtechと文理融合教育(8)ーSociety5.0を見据えた社会学者の奮闘記ー


私が教育者に必要な柔軟性と寛容性の好例と思うのは、漫画「動物のお医者さん」の中に出てくる細菌学のレポート課題についてのエピソードである。教員は、なるべく多くの学生に単位を出したいが、正しい内容のレポートでなければ評価はできない。学生は短い期間内に細菌を培養し、どのような菌なのかを判断しなければならないが、不慣れなために細菌を殺してしまったり、誤って細菌を皮膚に付着させてしまったりと、大混乱をきたしてしまう。

なんとかヒントを引き出したいと話しかける学生に対し、教員はのらりくらりとはぐらかしながら、時には緊張感を持って注意をするだけでなく、誰にいない時にこっそりと、細胞が消滅しかかっている学生のシャーレに継ぎ足してサポートする。そしてこの講義の受講生達は、皆大変であるにもかかわらず、全員が単位を取得するという目的の下、他の受講生の細菌の正体を突き止めるために、一致協力するのだ。つまり、それぞれの進度が違うことが、協力関係の構築の契機となり、受講生全体のレベルの向上につながっているのである。こうした協力が可能なのは、恐らく舞台が北海道大学だから、であろう。

学力偏差値が低い学生たちの集団では、教員サイドが用意した学びのシナリオなど全く無視して、自分の表現したいことに必要なものから学んでいくという傾向があり、それゆえ、学生たちの間での協力関係が形成されにくい。そしてそれゆえに、教える側には高度な技術水準に加え、学生たちの様々な試みを温かく見守る寛容性が求められることになる。

ブリュデューの文化資産論を乗り越える基礎教育の必要性

教育の現場では、ズブの素人がいきなりオセロゲームのプログラムを組もうなどという無謀なことに取り組み、うまくいかないといってキレて投げ出すといったことが、極めて当たり前に発生する。しかし、そうした学生を切り捨ててしまうのは教育の放棄、つまりは教師の敗北のような気がしてならない。果たしてLMSは、この問題を乗り超えるうえで、どのような効果を発揮するのであろうか。
知識の習得よりもザッピングを好み、人差し指一本で大抵の問題を解決できることに慣れてしまった若者たちの多くにとって、「千里の道も一歩から」という言葉自体が死語になってしまっている。しかしそれは、若者たちにとって、ある意味当然のことなのだ。変化の速い液状化社会では、一つの技術の習得にかけたコストを回収することが難しいとされるその意味では、旧態依然とした内容・方法による「基礎」からの教育が、「生き抜いていく力」を身に付ける上では機能せず、もはや「教える側のための教育」に堕しているという指摘は正しい。だとすれば、それに代わる内容・方法で、「生き抜いていく力」として機能する基礎教育と、プログラミング教育そして統計学教育を再構築していく必要がある。口では「格差の再生産は社会問題だ」といいながら、「親から受け継いだ文化資産の再確認」をもって教育の使命とするような政策は、願い下げだ。さすがにゲイツやジョブスのような才能を望むのは無理としても、ホリエモンのような人材がどんどん生まれてこなければ、教育改革の意味はないだろう。

文理融合型・問題解決の知を支える個人・社会と教養・人文社会科学の知の姿

かって、社会の底辺層に教育を施すことで、正規分布していると考えられた社会階層の分布の左端の裾、すなわち、社会病理の原因となっているであろう貧困層を底上げできるとの考えで行われた政策が、かえって裾野を拡大する結果・犯罪数を増加させる結果になったとこいう歴史的な事実があることを、今回の教育改革を企画した諸賢は承知しているのであろうか。その上で、親世代の所得階層や文化程度、人的ネットワークに左右されずに、子供達自身が自らの未来を切り拓いていく環境を作ろう、ということであれば、「現在よりも格差が拡大する未来社会」について、皆が納得するようなキャッチコピーを作って、社会で共有していくことが、最低限でも必要なのではないかと思う。そして、誰もみたことのない未来について、皆で共有できるイメージを作り上げ共有するという創造的な営みをするプロセス自体も、実は文理融合型の知性に深く根ざすものであり、また、新しい文理融合型の知を絶えず更新していくための最初の試みになる。文理融合型の問題解決の知は、そこだけを見ればまさに「キリの先」のようにピンポイント的・「寸鉄人を刺す」が如きものだが、問題解決の主体となる個人が、これを生み出すのに必要なセレンディピティを発揮するには、社会の側にダイバーシティとロバストネスを両立させるだけの寛容性が、個人の側にはフレキシビリティとリダンダンシーを持つことのできる成熟度が必要である。
合理性や効率性のみを重視する風潮が社会の隅々にまで浸透してしまうと、「政治は人間が行うから誤るのだ。だったらAIに任せた方が、人間は幸せになるはずだ」なんてことが、社会にまかり通ることになってしまう。確かに、神ならぬ人間、は判断を誤る可能性を、常に持つ。しかしそれと同時に、人間には誤りを自ら認めし、それを正していこうと努力することができる。AIは、そうした内省能力を持ちえない。小生は、文科省教育は少なくともa.アルゴリズム作成能力、b.アジャイル型問題開発能力、c.アライアンス、あるいは、アウトソーシング能力・オープンイノベーション能という三つの柱を含むべきと考えるが、こうしたテクニカルなことだけを重視するのではなく、STEM教育など新しい教養教育・人文社会科学の知を伝えるカリキュラムも、きちんと行うべきだろう。前者のみで後者が欠ける教育では、大量の「堀江」族を産む一方で、文化資産を備えた「三木谷」族は少数のままとなり、新たな階級格差を際立たせる結果になる可能性が高い。政治家や官僚は自ら持つ文化資産について無感覚であることが多いから、そうした「意図せざる結果」の可能性について、思いが至らないのかもしれない。この点について、彼らの思考能力は、皮肉にも、まさにAIの域を出ないと評するべき、ということか。

新しい時代を生きる者たちのための教養・人文社会科学の知の構築を!!

神ならぬ人間、不完全であることを運命づけられた人間そして人間が構成する社会に、他ならぬ神が埋め込んだ確率分布に関わる法則を自在に使いこなせるようにするのが統計学の本質であれば、人間が問題を解決するためのロジックを、恣意性が入り込まないように抽象化し客体化する行為そのものがプログラミングということになろうか。いずれにも長年にわたって現場で関わりを持ってきた「文系を出自とする」小生にとって、この二つの領域についての知識が「普通」になった時に必要とされる人文科学的な知・社会科学的な知の構築は、ほとんど考えられてこなかったか、あるいは、その存在を無視されてきたように、思えてならない。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」との言葉に倣えば、人文科学的な知も社会科学的な知も、そして新しい人材を受け入れる社会や会社も、更新されるべき時がきているのではなかろうか。常に過去の事実に論拠を求め保守的・保身的な傾向の強い教師サイドの発想ではなく、未だ現象化しない未来を生きることになる学生サイドに立った想像力豊かな構想に基づく、個人・社会そして人文・社会学的な知を構想し、それを具体的な社会システムの中に実装することによって、少子化の進む日本の旧態依然とした体質に嫌気がさして有為の人材が大量流出するような、あるいは、新たな社会的格差の下で高度な犯罪社会が頻発するといった「絶望的な未来」が訪れないようにすることこそが、分別ある大人たちの責任なのではないか。文部科学省の教育改革で謳われているのは、水上に浮かんで見える氷山のほんの一部分にすぎない。その教育改革を、真に若者たちの未来を豊かなものへと昇華させるためには、大人たちの側において、個人レベルでの破壊的な意識改革、社会レベルでの文化・構造両面における「血を流すことも厭わない改革」。そして、覚束ない未来において彼らが自らの人生を切り開いていく基礎となる、新たな教養・人文社会学的な知の構築に向けての、自己否定を厭わない大胆な実践が不可欠なのだ。「教職についてからン十年これでやってきたのだから、変える必要など全くない」などという、若者から豊かな未来を奪うことをもって社会的使命とするような教育者は、早々にご退場願いたい。自らを変革する実践を自ら行う覚悟のあるもでなければ、未来を生きる若者たちの範となりえず、言動と行動の著しい乖離が感受性豊かな若者に与える影響を考えれば、意味がないばかりか有害。ある意味社会的犯罪を構成するとさえ思えるからである。


天野徹
天野徹

明星大学人文学部人間社会学科教授。
専門は、情報社会学・社会統計学・都市社会学。東京都立大学大学院博士課程単位取得中退。社会学をベースに、文理融合・問題解決の知のあり方を追求してきた。(財)あしたの日本を作る協会の委員として、webサーバーを立て、「地域づくり運動情報データベース」を構築・公開。社会調査の領域に、ハイパーテキストを活用したプレゼンテーション作りや、3Dモデリングによる景観シミュレーションを導入。東日本大震災の後、自ら提唱したコミュニティ・ネットワークの理論をもとに、災害レジリエンスを備えた社会システムと、それを実現するための情報システムを構想。PHP、Java Script、CSSなどを用いて、義援物資マッチングシステムと避難所情報収集システムを構築し、サービスを公開。現在は、インバウンド等の災害対策として、AIを活用した被災者・帰宅困難者誘導システムの構築・一時滞在施設確保のためのビジネスモデルの構築と社会実装に取り組んでいる。

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