米露関係の曲がり角と日本



【出典】外務省HP

「日ソ共同宣言」フィーバーの陰で

本稿の脱稿時点(2018年11月21日)で、日本のマスメディアは北方領土問題でもちきりとなっている。11月14日、シンガポールでプーチン大統領との会談を終えた安倍首相が、「日ソ共同宣言を基礎として」領土問題解決を目指すと発言したことにより、いわゆる「二島先行返還」方式への舵が切られたのではないかという観測が強まったためだ。

ただ、その実現性や今後の見通しについてはすでに多くの解説がなされているので、ここでは繰り返さない。むしろ、やや迂遠なようではあるが、米露関係について考える中で北方領土問題の今後について見通してみたいというのが本稿の趣旨である。

北方領土問題は、その当初から米ソ関係に大きな影響を受けてきた。米ソが厳しい軍事的対立を繰り広げる中で、米国の同盟国である日本がソ連と接近することは常に米ソ関係の制約を受けてきたためだ。

ソ連崩壊によって米ソの対立構造が取り払われると、こうした側面は一時的に後退した。ソ連崩壊の余波でロシアが深刻な社会・経済的混乱に見舞われたことで、日本の相対的な優位性が増し、経済をテコに北方領土問題を動かすことができるのではないかという期待が生まれたのもこの頃である。

しかし、2014年のウクライナ危機以降、米露関係は再び緊迫化の局面を迎えており、北方領土を巡るロシア側の態度にも変化が生じてきた。2016年12月に訪日したプーチン大統領は、日本が米国に対して「条約上の義務」(日米安保条約を指す)を負っているとして返還後の北方領土に米軍基地が設置される可能性に懸念を示したほか、極東に二つの重要な海軍基地(ウラジオストク周辺の太平洋艦隊主力とカムチャッカ半島の原潜基地)が存在していることを指摘するなど、北方領土の軍事上の価値に脚光が当たるようになった。また、プーチン大統領は翌2017年の6月、韓国へのミサイル防衛システムTHAAD配備などを理由として、北方領土の軍事的価値が高まっているとの認識を示している。

核抑止基盤としてのオホーツク海

純軍事的に見た場合、北方領土を含むクリル列島(日本は北方領土の国後島と択捉島は千島列島に含まれないとの立場であるが、ロシアは両島と千島列島が一体であるとしてこのように呼ぶ)はオホーツク海への出入り口を扼する天然の要害である。同海域は潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を搭載した戦略原潜(SSBN)のパトロール海域であり、有事に地上・空中配備型核兵器と政治中枢部が壊滅しても確実に報復攻撃を行える第二擊能力を担う。

このようにしてみると、ロシアが近年進めている北方領土の軍事力近代化は、北方領土そのものというよりもオホーツク海の防衛体制強化という側面が大きいと考えられる。実際、北方領土配備の地上部隊(陸軍第18機関銃・砲兵師団)の兵力は1990年代からさほど大きく変化しておらず、新兵器の配備ペースも他地域と比べて遅い。その一方で、ロシアは2016年に国後島・択捉島に海軍の新型地対艦ミサイルを配備したほか、2016年には少数ながら新鋭のSu-35S戦闘機を択捉島に配備するなど、オホーツク海周辺における接近阻止・領域拒否(A2/AD)能力の強化が重視されていることが窺われる。

ロシア側が北方領土の軍事的価値を強調するのは、日本に対して島の「値段」を吊り上げる交渉戦術という側面もあろうが、米露関係が悪化する中で核抑止力の価値が高まっていることもまた事実であろう。

米国の進めるロシア「封じ込め」

そこで注目されるのが、米トランプ政権の安全保障政策である。2017年12月にトランプ政権が発表した『国家安全保障戦略(NSS)』は中国と並んでロシアが米国中心の国際秩序に対する「現状変更勢力」になりつつあることを指摘したほか、これを受けて2018年1月に発表された『国防戦略(NDS)』は、中露との「戦略的な大国間競合」が生じつつあるとの認識を示した。さらに同年2月の『核態勢見直し(NPR)』は、ロシアの核戦力増強を念頭に、小威力核弾頭搭載SLBM(LY SLBM)の配備と一度は廃止された潜水艦発射型核弾頭搭載巡航ミサイル(SLCM)の復活を謳うなど、軍事面でのロシア抑止の姿勢を鮮明にしている。

さらに米国は、ロシアの国力そのものを封じ込める戦略も取り始めた。トランプ政権に対するロシアの期待は、2014年以降に導入された対露制裁(特にエネルギー分野に対する資金と技術の供与を定めた第三次制裁)の解除であったが、現実には、トランプ政権下で対露制裁は強化されている。特に2017年8月に可決された対露制裁強化法では、ロシア国外でのエネルギー開発であってもロシアが33%以上出資していれば投資規制の対象となったほか、ロシアの銀行やエネルギー企業に対する融資条件も厳格化された。

加えて米国は2018年以降、ロシア製兵器を購入する国への制裁を科し始めている。ロシアから防空システムや戦闘機を購入したとして中国国防部に対する制裁が発動されたのを手始めに、インドやインドネシアなど、ロシア製兵器の大口顧客に対する制裁も検討されるようになった。エネルギーと武器という、ロシアの二大外貨獲得源を狙い撃ちにする方針と言える。

ガラガラポン?

このような方針は、トランプ大統領個人というよりも米国の対外政策エリートの中で共有されてきた空気を反映したものと言える。中国とロシアというユーラシアの巨大国家が米国中心の秩序を公然と逸脱するようになりつつあることへの危機感がその背景にはある。

一方、トランプ大統領がこれまでに表明してきた政治的姿勢はこれと微妙に異なるように思われる。トランプ大統領の政治的アジェンダの中では「秩序」のような抽象的・長期的価値の占める優先順位は極めて低く、むしろ大国間の「ディール」による短期的な利益のほうが重視されているように見えるためだ。

こうした中でトランプ大統領は今年7月、ロシアのプーチン大統領と初の公式首脳会談に臨んだほか、11月末にはアルゼンチンで「長時間の本格的な」首脳会談を行うとしている。主要なアジェンダとされているのは、2021年2月に期限切れを迎える戦略核兵器削減条約「新START(新戦略兵器削減条約)」の延長と、10月にトランプ大統領が脱退を表明した戦域核戦力全廃条約である「INF条約(中距離核戦力条約)」である。ここで長距離と中距離の核戦力に関する規制を「ガラガラポン」して新たな合意枠組みが成立すれば、厳しさを増す一方だった米露関係が新たな局面を迎える可能性は排除できない。

また、トランプ大統領は対露強硬派のマティス国防長官の更迭を検討しているとも伝えられ、ロシアにとっては好機到来と言える。

日本に求められる長期的視野

では、米露関係がたとえ限定的にでも好転すれば、これまで述べたような安全保障上の懸念を背景とするロシアの態度が軟化することを期待しうるだろうか。筆者はこの点について悲観的である。ロシアでは近年、米露関係の基調がかなり長期にわたって緊迫したものになるという見通しが支配的になりつつあるためだ。

トランプ政権というかなり特殊な政権の下で一時的な関係改善が生じたとしても、ロシア側はこれが長期的なトレンドになるとは考えないだろう。安全保障を特に重んじるロシアの国家的な体質を考えても、核抑止力という長期的な利益を短期的な対米関係のみに基づいて譲ることは考え難い。オバマ政権で米露関係が「リセット」された際も、ロシアは新START(新戦略兵器削減条約)に米露の戦略核バランスを維持するための厳密な規定を導入するよう要求するとともに、東欧へのミサイル防衛(MD)システム配備にも強硬な反発を示した。

少なくともトランプ政権の二期目があるかどうかも不確定な状況では、ロシアが北方領土を巡る安全保障上の要求(たとえば北方領土に米軍基地設置を禁じることや、日米安保条約の適用対象外とすること)を容易に取り下げる可能性は極めて低いと思われる。

ロシアの態度がこのようなものである以上、日本もまた、長期的な視野を捨てるべきではない。日ソ共同宣言に基づいて北方領土問題を歯舞・色丹の二島先行返還で妥結(事実上は国後・択捉の返還棚上げということになろう)すること自体は現実主義的なアプローチとして否定されるものではないが、結論を急ぐあまり日本の主権に関わる問題で妥協しては本末転倒である。特に北方領土における日米安保条約の不適用を呑むとなれば、引き渡される領土に対して日本の主権が制限されることになる上、尖閣諸島問題における米国の拡大抑止の信頼性をも損なうことになりかねず、ひいては日米同盟の結束にも疑問を投げかける恐れさえある。

繰り返しになるが、筆者は北方領土問題の落とし所を二島先行返還とすること自体は否定しない。島の実効支配を続けているのがロシア側である以上、日本側がなんらかの妥協を示さない限り事態が動かないのは明らかであろう。ただし、それは日本の安全保障の根幹を揺るがすようなものであってはならない筈である。


小泉悠

未来工学研究所特別研究員
1982年、千葉県生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了後、民間企業勤務、外務省国際上統括官組織専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員などを経て現職。専門はロシアの軍事・安全保障政策、宇宙政策、危機管理政策など。主著に『軍事大国ロシア』(作品社)及び『プーチンの国家戦略』(東京堂出版)、鼎談をまとめた『大国の暴走』(講談社)などがある。

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