自由民権運動の壮士たち 第10回 天春 文衛(三重県) 


「減税将軍(地価修正将軍)」と呼ばれた男

明治の始めに三重県では、減税を求める大規模な一揆が起こりました。そしてほぼ同じ時期に茨城県でも、こうした一揆が起きたのですが、明治政府はこのような動きを受けて減税を行ないました。この三重県での大規模な一揆は、東海大一揆(伊勢暴動)と言われていますが、この地域ではこうした減税を求める大衆的な運動がその後も続けられます。そうした運動のリーダーとなって、当時「地価修正将軍」現代風に言うならば「減税将軍」と呼ばれた、天春文衛(あまがす ふみえ)という人がいました。


【 写真① 天春文衛の肖像写真 】

明治時代となって、それまでのお米による納税のやり方が大きく変えられる事となりました。収穫できる米の量は毎年変わるので税収が不安定となるため、納税の仕組みを大きく変える必要があったのです。まず土地の価格(地価)を決めて、その地価の3%を地主がお金で納税する事としました。こうした納税システムの大改正は、地租改正(ちそかいせい)と呼ばれる一大国家プロジェクトでした。

この地租改正の作業が進められていく中で、納税者である農民に大きな不満が生まれて行きました。ある年の夏に、現在の三重県松坂市で大規模な洪水被害が発生します。洪水で水に浸かった大量の不良米が発生してお米の価格は下落し、農家の収入は大幅に低下する事となりました。しかし、納税の基準となる地価は、以前のお米の価格に基づいて決められていたため、この年に納める税額は農民からすると30~40%ほど高いモノになってしまったのです。

こうした状況の中で三重県の各地の農民たちは、減税や、お金ではなくお米での納税を請願する活動を行ないます。そして松阪市では、洪水の被害を受けた農民約1000人が請願のために市内にある県の出張所へ押し寄せ、納税先だった三井銀行を焼き討ちするという事態に発展します。こうした行動は、三重県各地に広がり、岐阜県や愛知県まで広がる事となったのです。


【 写真➁ 三重県以外にも広がった東海大一揆 】

約1週間続いたこの行動は、焼き討ちの被害が約2300件、死者35名も出す大規模なモノとなりました。しかしこうした行動は、暴動のような無秩序的なモノではなく、江戸時代の村役人といった地域の指導者層に指導された秩序ある行動であり、焼き討ちの対象の多くも、官の施設とそこにあった税金関係などの書類だったのです。そのように、増税を進める新政府に対する反対行動としての、減税を求める行動であったという点から、かつては「伊勢暴動」と呼ばれたこの行動は、現在では「東海大一揆」と呼ばれています。

この一揆に対して明治政府は警察や軍隊を出して鎮静化を図り、5万人以上が逮捕されましたが、死刑が1名、終身刑は3名、懲役1年以上は77名と、この時代としては比較的緩やかな処分で収まりました。これは、当時鹿児島県での西郷隆盛(さいごう たかもり:明治6年の政変で下野し、西南戦争で政府軍に敗れる)を中心とした不穏な情勢があった事と、地租改正の事業をスムースに進めていくためだったと言われています。


【 写真③ 東海大一揆に関する警察調書の複製:三重県立公文書館所蔵 】

そして、当時の明治政府のリーダーであった大久保利通(おおくぼ としみち:日本の官僚機構の基礎を築く)は、この事態を受けて地租を軽減する事を決意。前島密(まえじま ひそか:自由民権運動の壮士たち連載第8回に掲載)に減税を提案する文章を作成させて閣議にかけ、地租率を3%から2.5%に軽減する事を決定しました。これによって国家の歳入が20%近く減らされたため、それに応ずる形で行政改革が進められ、省庁の統合や大量の人員整理が行われました。「やれば出来るジャン!」という感じで(笑)、現在でもその気になれば大幅な行政改革も不可能ではないという事なのかもしれません。

そして、税の負担に関する合意を形成するために、地方議会を開設する事ともなりました。これによって、税金についての国民からの異議申し立ては、一揆のような非合法な形ではなく、地方議会という合法的な制度を通して行う事が出来るようになったのです。こうした点からしても、東海大一揆がもたらした影響は極めて大きなものがあったのです。


【 写真④ 東海大一揆を描いた浮世絵 】

こうした中で進められた地租改正の作業では、いったん決めた地価を5年後に修正する事となっていました。しかし政府は、これを更に5年先伸ばしする事とした上で、地価が不適切な場合は、特別に修正する事が出来るとしました。これを受けて、三重県下の300以上の村では、地価の特別修正を求める請願運動が起こされました。この運動の中でも特に強力な運動が展開されたのが、現在の四日市市にある朝明(あさけ)郡中野村という地域でした。新たに開設された三重県議会で、この中野村から県会議員に選ばれたのが、地元の大地主である天春文衛という自由民権家だったのでした。

天春は、それから約10年後に開設された衆議院の第1回選挙に立憲自由党から出馬して当選。そして、「政費節減・民力休養」というスローガンを掲げる民党(自由民権運動側の政党)の一員として、減税を求める議会活動を行なっていきました。この減税を行なう上では、税率を下げる方法と、その税率をかける地価を下げるという、二つの方法がありましたが、天春たちは地価を下げる事を目指します。そして、天春自らが発議者となって「特別地価修正法案」を第1回議会で提案しますが、衆議院で否決されてしまいます。この時、三重県下では18000名以上の請願署名を集めて、地価修正法の成立を求める請願書を提出するという、大衆的な運動も取り組まれました。天春の議会内での行動は、そうした大衆運動をバックにしたものだったのです。


【 写真⑤ 有田義資(ありた よしすけ)三重県知事からの天春への手紙 :三重県立公文書館所蔵 】

そして第2回議会では、天春ら3名の衆議院議員によって「田畑地価特別修正法案」が提案され、衆議院で修正された上で可決する事となりました。しかし、政府と民党の対立が激化して衆議院が解散されてしまったため、法案も不成立に。その後天春たちは、地価修正を求める運動を全国的に広げて行きます。そして、地価修正請願同盟の事務所も東京に設置されて、全国的な運動が展開されていく中での第3回議会では、「田畑地価特別修正法案」が衆議院で修正可決。しかし、貴族院で否決される事となってしまったのです。

こうした地価修正を求める減税運動が、天春たちによって一歩一歩進められていったのですが、日清戦争が起こった事などによって、軍事力増強のために地租増税を求める声が国内では多数派となっていきました。こうした状況の中で、陸軍のドンである山縣有朋(やまがたありとも:東京目白にある椿山荘はその邸宅跡)の内閣によって、「地価修正法案」と同時に「地租増徴法案」が提案されて成立。地価修正がようやく実現された一方で、地租率が2.5%から3.3%に5年の期限付きで引き上げられて、結果として増税が行われる事となってしまったのです。


【 写真⑥ 内務大臣や鉄道大臣を務めた床次竹二郎(とこなみ たけじろう)からの天春への手紙 :三重県立公文書館所蔵 】

その地租増税の期限である5年後が近づくと、三重県津市では増税の継続に反対する農民大会が、300人以上の参加で開催されます。そして、「地租増税の継続に反対。増税を財源とする海軍の拡張計画に反対」とする増税廃止運動が起こり、翌年には津市で1000人規模の集会が行われるほど運動は拡大します。しかし、その翌年に日露戦争が始まったために運動は沈静化。「戦時非常特別税」として、さらに5.5%に増税される事となってしまったのです。

そして日露戦争が終わると、特別税は戦争終了後1年で廃止する約束だったとして、特別税の廃止を要求する運動が三重県一志郡(現在の津市、松阪市)で起こり、一志郡16か村の農民から特別税の廃止を求める請願書が、国会に提出されました。そしてその3年後には、特別税の廃止を要求する三重県農民大会が、1000人以上の参加で開かれ、地租の軽減と農産物の関税引き上げを要求する農民組織の結成が決議されて、天春らが理事に就任しました。そして翌年、特別税による地租5.5%は4.7%に軽減されて、ようやく減税が実現される事となったのです。


【 写真⑦ 天春文衛の銅像跡 】

こうした減税運動を続けてきた天春は、当時「地価修正将軍」現代風に言うならば「減税将軍」と呼ばれたと言われています。また天春は、明治時代の終わりに、現在のJA三重の前身組織である三重県農会の副会長に就任(会長は県知事)。実質上の組織のトップとなった天春は、80才で引退するまでの17年間、農業技術改良など様々な農業事業を推進しました。そして、その功績をたたえて天春の銅像も建設されたのですが、第二次世界大戦中に軍事物資のために供出。現在は、その台座の上に供出された事を伝える石碑が建てられて、JA三重の敷地内にひっそりと残されています。

さて、三重県が発行している『三重県史』によると、「(三重県では)組織的な国会開設運動は低調であり、自由民権運動の高揚もあまり見られなかった」とされていて、その部分だけを見ると、三重県での自由民権運動は「低調」であったかのように思ってしまいます。一方、安在邦夫・早稲田大学名誉教授によると、自由民権運動が目標とした主な事は、①憲法の制定、②国会の開設、③地方自治の確立、④地租の軽減、⑤不平等条約の改正の5つだったといいます。確かに、三重県での①憲法の制定や②国会の開設を求める運動は、「低調」だったのかもしれません。しかし、東海大一揆以来の④地租の軽減を求める運動の歴史に注目するならば、三重県は自由民権運動が最も「高揚」した地域だったとも言えるのだと思われます。


【 写真⑧ 天春文衛の銅像跡に立つ石碑 】

歴史は光の当て方によって、その見える姿が全く違ったものになってしまいます。現代につながるその貴重な歴史が、地域の人たちからすっかり忘れ去らさられてしまった結果としてある、天春の銅像跡。その姿を見ながら、減税や小さな政府を求める運動という光を当てる事で、全く違った自由民権運動の姿が見えてくるのではないかと、強く思った次第です。


中村英一
中村英一


自由な社会を目指して、現代日本での自由民権運動を志す自由民権現代研究会 事務局長。2012年に静岡県で行われた「浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票の実施を求める直接請求活動」という、県民の政治への直接参加を求めた県民大衆運動の事務局次長として、17万余の静岡県民の署名を集めることに貢献。民主主義の進化を求めて、浜岡原発の再稼働の是非を問う県民投票の実現を目指す、原発県民投票静岡2020代表。より良い国民投票の実現を目指す、国民投票静岡代表を務める。中央大学法学部卒業。

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