政策シンクタンク論・第4回 自民党シンクタンクでの試みと挑戦(その1)



(WikiからTYF編集部引用)

1.はじめに

自民党の政策研究機関「シンクタンク2005・日本」は、2006年3月に設立されたことは前号で記した。同シンクタンクの設立は、前年10月、国会の自民党総裁室で行われた役員会で、承認された。筆者も陪席していたので、今も記憶に鮮明に残っているが、同機関は「小さく生んで、大きく育てていく」ことの同意と共に、小泉総理総裁(当時)から「組織には、自民党の名前は入れない方がいい」という指摘がなされた。

このようにして、設立は難産ではあったが、同シンクタンクは、小さいながらも少しづつ活動をはじめていくことになるのである。

2.「シンクタンク2005・日本」の活動と試み①…行政を凌駕した経済政策

ここでは、同シンクタンクの活動のいくつかについて、紹介・検討していこう。

筆者は、設立が暗礁に乗り上げたり、右往左往しながらも、そのシンクタンクが設立された際に、どのような研究活動を行うべきかについて、2005年の前半から模索し始めていた。特に同年の夏ごろには、「日本を立て直すには、国際的にエコノミックアニマルいわれようと、何と言われようと、日本の経済を立て直すことが、最重要課題」と考えていた。そこで、知り合いのエコノミストと相談し、シンクタンクが出来たら、日本経済の再生のための研究プロジェクトを実施したいので、その企画を考えてほしいと依頼したのである。それが、そのシンクタンク設立当初時に承認されるパイロットプロジェクト(PP①)「日本経済の3%成長への経済政策」になっていくのである。なお、同時期に承認されたPPは「『小さな政府』研究」(PP②)であった。

PP①の成果は、PP②の成果と相互補完しながら、当時の骨太の方針の作成や行政の主張を抑えるなど、自民党の政策形成に大きく貢献した。
当時は財政再建に関しては、現在「歳出削減」「経済成長(による税収入の増加)」「増税」の3つのポイントを睨みながら、議論が展開されていた。また特に経済成長に関しては、関連大臣、行政、自民党幹部の間で、大きな論争があった。中でも財務省を中心とする行政は、高い経済成長は絶対に無理と主張した。

それに対して、中川秀直政調会長(当時)を中心とする自民党が、PP①やPP②の研究成果を十二分に活用し反論し、高い経済成長率路線に議論を牽引すると共に、高い増税路線を抑えることもできたのだ(注1)

当時の行政中心の政策形成において、なぜそのようなことが可能だったのであろうか。

それは、PP①が、ノーベル経済学賞受賞者のL.R.クライン教授らの研究チームが、日本の経済の実態に見合った経済モデルで、シュミテーションを行うという実証分析があったからだ。

もちろん、行政にも経済分析のモデルはあるが、それ自体は、当時の日本の実情に必ずしも即したものではなかったのである。また、日本では、行政が一般的に政策情報を独占し、行政以外から、的確な経済政策情報がつくられ、活かされるようなことはなかった。

しかしその時には、経済モデルや経済政策情報の戦いだったが、PP①の成果が、当時の経済状況により的確で、行政や政治の側からも反論できなかったからである。またこのような情報があれば、政治が行政をコントロールすることもできるということである(注2)。

そのようなことは、それ以前の政策形成ではほぼ皆無であり、「シンクタンク2005・日本」の研究成果がリードした手法は、日本の政策形成史上で、正に「革命」だったのだ。

3.「シンクタンク2005・日本」の活動と試み①…第一安倍政権成立に貢献

「シンクタンク2005・日本」は、当時の自民党党改革実行本部の中心メンバーである、安倍晋三本部長、塩崎恭久事務局長、下村博文議員や世耕弘成議員(肩書はすべて当時)らの熱心かつ積極的な活動の賜物として、厳しい困難にも関わらず、誕生することができたのである。

また、当時は、小泉総理は、2006年には総理を辞し、総理・自民党総裁を安倍晋三議員に禅譲することが既定路線だった。そこで、同シンクタンクは、安倍政権の移行や政権運営がスムーズに行えるように、政権立ち上げの計画案や人的情報の提供などさまざまなサポートを後方から行うと共に(注3)、先にパイロットプロジェクト以外の政策研究を行い、その成果で政策的インプットを行ったのである。

正に、政党シンクタンクの存在意義を示し、その醍醐味を味わったといえる。

4.順風から逆風に

このようにシンクタンクのはじめの頃には、その活動は順調に進展したのである。ところが、その設立からあまりに短期間に、安倍政権が成立し、その設立に関わった議員の殆どが政権に入っていったがために(注4)、シンクタンクと党との信頼関係が十分に醸造される前に、党の側に擁護してくれる議員があまりいなくなってしまったのである。それは、「シンクタンク2005・日本」が、正に大海の中を小舟で漕ぎ出していかねばならない状況になったことを意味したのである。

(注1)その成長戦略路線は、その後成立した第一次安部政権でも重要な政策の一部になったのである。
(注2)もちろん当時、行政が批判され政治が主導権を持ち、社会状況が改革志向であったことや、政治の側当時に、中川政調会長や竹中平蔵大臣などの役者が揃っていたということも、その実現に貢献したことも記して置くべきだろう。
(注3)その成果は、後に書籍『できる総理大臣のつくり方』(春日出版、2009年)に繋がる。
(注4)それは、シンクタンクの設立に関わったのは当時の改革派の議員であり、政権参画は当然の流れであり、議員にとっても良いことではあったのだが。


鈴木崇弘
鈴木崇弘


城西国際大学大学院国際アドミニストレーション研究科教授および「教育新聞」特任解説委員。宇都宮市生。東京大学法学部卒。マラヤ大学、イースト・ウエスト・センター奨学生として同センターおよびハワイ大学大学院などに留学。東京財団の設立に関わり同財団研究事業部長、大阪大学特任教授・フロンティア研究機構副機構長、自民党の政策研究機関「シンクタンク2005・日本」の設立に関わり同機関理事・事務局長、法政大学大学院兼任講師、中央大学大学院公共政策研究科客員教授、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)事務局長付、厚生労働省総合政策参与などを経て現職。91年―93年まで 米アーバン・インスティテュート兼任研究員。PHP総研主席研究員、日本政策学校代表、Yahoo!ニュースのオーサーなども務める。大阪駅北地区国際コンセプトコンペ優秀賞受賞。主な著書・訳書に『日本に「民主主義」を起業する…自伝的シンクタンク論』(単著)、『学校「裏」サイト対策Q&A』、『世界のシンク・タンク』(共に共編著)、『シチズン・リテラシー』(編著)、『アメリカに学ぶ市民が政治を動かす方法』(監共訳)、『Policy Analysis in Japan』(分担執筆)など。現在の専門および関心分野は、公共政策、民主主義の起業、政策インフラの構築、新たなる社会を創出していける人材の育成さらに教育や統治における新システムの構築。

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